1990年 東、南ヨーロッパ旅行ハプニング集

2017/12/17

3ヶ月に及ぶヨーロッパ、モロッコ旅行は、さすがにこれだけ長いと当然ハプニングも沢山あります。全部は載せきれないかもしれませんが、大小様々なハプニングをここで纏めてみました。

尚、この旅はヨーロッパの来る前にアメリカも少し回ってから来てますが、そこでもハプニングは起きてます。それはアメリカ合衆国旅行ハプニング集に書きました。


ロッカー事件(チェコ(プラハ))

この旅で私の記憶に鮮明に残る取っておき?の最初のハプニングはチェコプラハでのことです。

どこの街でもよくやることですが、その日に夜行でその町を出る場合、朝一番で宿をチェックアウトした後、夜行列車ならその列車が出発する駅、バスならバスターミナルにまず行って、大きな荷物コインロッカー手荷物預かり所に預けます。そして街歩き用の手荷物(カメラやガイドブック、財布など)だけを持って1日観光し、夜コインロッカーに戻って大荷物を取って、夜行列車等に乗り込んで出発というパターンが一般的です。チェックアウトした宿でも夜まで預かってくれることもありますが、出発する駅に置いておいた方が便利なことが多いです。

チェコ、プラハでもまさにこのパターンで、9月9日朝、宿を出た後プラハ中央駅に向かい大荷物をコインロッカーに預けました。この日は夜ハンガリー、ブダペストに向けて夜行でこの駅から出発するからです。

ところがこのプラハ中央駅のコインロッカーは当時としては実に進んでいました。所謂で開けるのではなく、暗証番号を設定するものでした。現在ではどこにでもありますが、1990年当時は西側諸国でも殆どこの類のロッカーはありませんでした。社会主義国だったチェコにあったのは驚きです。

とは言っても私も全く見たこともないようなものでもないので、普通に暗証番号をセットして預けました。こういう時使う暗証番号は決まっているものがあるので、それをセットしました。

その後1日プラハ市内を観光して、たぶん夕方6時頃には駅に戻って来たと思います。しばらくは買ってきたパンなどで夕食をとったりしたかもしれません。そして7時過ぎにはロッカーから大荷物を出そうとしたと思います。

因みにこの夜列車の出発は22時40分です。まだまだ時間はありますが、特にすることもなくなったのでゆっくりするつもりだったと思います。

さてロッカーに行って荷物を出そうと、預けたはずのロッカーで暗証番号をインプットしました。あれ??開きません。おかしいな。もう一度トライ。やはり開きません。え?そんなバカな。

この時ちょっとした失敗をしていることに気がつきました。実は預けたロッカーのロッカー番号を控えておかなかったのです。鍵で施錠するタイプなら普通は鍵に番号が書いてあります。また最近の暗証番号ロッカーなら控えシートも出てくるでしょうが、このロッカーの場合、そのような控えシートは出ませんでした。

もっともロッカーは非常に沢山あった訳ではないので、大体の位置を覚えてましたから、取り立ててロッカー番号を控えておかなくても困らないだろうと思ったのです。

この時のロッカーの写真などありませんが、イメージとしては以下のような感じです。

                   
                   
                   

3段になっていて、横は10列くらいだったかと思います。この30個くらいのロッカーセットが2つか、3つあったかもしれません。赤いロッカーが私が入れたと記憶しているロッカーの位置です。左から2番目の真ん中の段ということになります。このような感じなので十分記憶できたため、特に番号を控えてなかったのだと思います。

しかしこのロッカーが開かない。そうなると途端に自分の記憶が怪しく思えてきます。もしかしたら記憶違いで一番左だったかもしれない。しかし左隣りは既に開いているのです。上記イメージ図でのものが開いているものです。自分が入れたと思っているロッカー(赤ロッカー)の両側は確かに開いてました。実はその他は適当です。ただ図のようにいくつかは開いていたと思います。

右隣りも開いている。どう考えても下段や上段に入れた記憶はありません。入れた時の感覚が相当違うはずです。しかしこうなったら試してみる他ありません。周辺の上段や下段、更には左から4番目や5番目も試してみましたが開きません。

一体何のだ!! ここで頭をよぎったのが「盗まれたかもしれない」という不安でした。例えば実はこの左から3番目が私が入れたロッカーであって、開いているということは誰かに開けられたのか。コインロッカーで盗難にあうなど、およそ日本では考えられませんが、東欧革命後、混乱しているチェコならあり得るかも。

そう思った時は本当に青くなりました。大荷物に入っているものは衣服寝袋シャンプーなど風呂用具空フィルム今まで撮った写真のネガ、これから行く先の地球の歩き方、最後にアメリカに帰る航空券などなど。

幸いお金(現金、及びトラベラーチェック)やパスポートは肌身離さず持っていたのでここには入ってません。衣服などは買えば何とでもなるものです。しかし航空券は高価なので痛いです。再発行は可能かもしれませんが、こんな外国の旅先でうまく手続きできるでしょうか。今まで撮った写真のネガも買えるものではないのでかなり痛いは痛いですが、それよりも個人的に致命的だと思ったのは地球の歩き方でした。

長年バックパック旅行を続けている強者の中にはガイドブックなしで旅をしている連中もいましたが、正直私には不可能です。また英語のガイドブックでも厳しいです。この先トルコ南ヨーロッパモロッコ西ヨーロッパなどを2ヶ月半以上旅をする予定でしたが、そのガイドブックである地球の歩き方を失っては到底旅は続けられません。このような事情から、もしこの大荷物が出てこなかったら旅は続行できないのです。一旦アメリカに帰って立て直しを図る必要があります。

ということなので非常に焦ったのは言うまでもありません。ブダペスト行きの夜行列車の時間も刻一刻と迫っています。

もうこうなると藁をもすがる思いです。盗難ではなく、私の記憶違いであってほしい。祈るようにしてすべての閉まっているロッカーを試しました。上記の30個のセットがもう2セットほどあったかもと言いましたが、それらも含めてすべてです。

しかしどこも開きません。もしかしたら暗証番号の記憶違いもあるかもしれない。一応いつも使う番号を試していた訳ですが、たまに別のも使ったりしてたような気もするのでその番号も試しました。

だめです。それでもどこも開きません。やはり開いている隣のロッカーだ。つまり盗まれたのだ。万事休すか。

しかしここでもう一つの可能性に気がつきました、というよりその可能性にすがりました。この手のコインロッカーは長い期間使いっぱなしでいるとロッカー管理者が開ける運用があると思います。もしかしたら何らかの手違いでまだ1日も経ってないのに、長期間使いっぱなしと判断されて、ロッカー管理者に開けられてしまったのではないか、ということです。

このコインロッカーの傍には手荷物預かり所もあって、そこには一人の太ったおばさんがいました。その人がロッカーの管理者かどうかは分かりませんが、とにかく訴えたのです。英語は全く通じません。しかし身振り手振りでロッカーが開かないことは訴えました。しかし何か文句を言いつつも何もしてくれないのです。預かり所から出ても来ません。

仕方ない。もう一度暗証番号を試すしか私もやる術がないので繰り返しましたが、やはりどこも開きません。

またおばちゃんに訴えます。依然何か文句を言っているだけです。こんなことを何度か繰り返したでしょうか。

夜行列車の時刻は間近に迫っていましたが、もはや今日の列車のことなどどうでも良かったです。旅を中止しなければならない事態に比べたら、どうでもいいことです。

そんな時、警察官のような人がやってきました。恐らく警備員駅員だったのだと思いますが、その人にも訴えました。伝えたかったのは「この開いているロッカーに荷物を入れていたが、なぜか開いている。恐らく盗まれたか、管理者に開けられたかのいずれかと思うのでそれを確認してほしい」ということでしたが、英語でも伝えられないようなこんな複雑な話を身振り手振りでは到底伝えようがありません。

しかしロッカーを指先しながら訴えたので、何らかコインロッカーで困っていることは伝わったかと思います。その後その警備員さんとおばさんで何か言い争っています。勿論チェコ語で話しているので、何を言っているのかは全く分かりませんが、とにかく警備員さんがおばさんに何か要求しているようでした。

暫くしてやっとおばさんが手荷物預かり所から出てきました。そして警備員と相変わらず言い争いながらもロッカーの方に来ました。

この時はもう開いているロッカーのことばかり頭にあったので、私は盛んに開いているロッカーを指して訴えつづけました。しかしおばさんはなぜか私が最初に開けようとしたロッカー手持ちの沢山の鍵で開けようとしたのです。

するとそのロッカーからビーーっという警告音が鳴り出しました。私は何んだ?と思いましたが、おばさんはそのまま鍵での開錠を続けたのです。

するとすっとロッカーは開きました。そして入っているではないですか、僕の荷物が「あったー!!! これです」と日本語で叫びました。

ここでやっと全てのカラクリが分かりました。私の預けたロッカー(最初に開けようとした位置は正しかった)が何らかの理由(壊れていたのか不具合か分かりませんが)で、正しい暗証番号をセットしたにも関わらず開かなかっただけなのです。

やはりロッカー番号を控えておかなったことがよくなかったのです。もし番号を控えていれば、このロッカーが正しい暗証番号を入れているのに開かない。何かこのロッカーがおかしいのではないかと、当該ロッカーに集中して対策を訴えることができたはずです。隣かもしれないとか、他かもしれない、盗まれたかもしれない、管理者に開けられたかもしれないといって、いろいろな可能性を考えたり、試したりして、無駄な努力に時間を費やすことはなかったのです。

この後、特に警備員さんなどからこの荷物が確かに私のものなのかの確認などもなく、すんなり解放してくれて、夜行列車に飛び乗ることができました。出発時間の10分前くらいだったと思います。


手荷物盗難(ユーゴスラビア(ベオグラード))

さてプラハでは事なきを得て、無事ブダペストについてしっかり観光もできました。9月11日はプラハと同じようにブダペストでもこの日が夜行での出発です。勿論プラハのようなことはなく無事ブダペストを出発することができました。

翌朝9月12日ユーゴスラビア連邦の首都ベオグラードに着きました。しかし朝起きたらもう駅に着いていて慌てて列車から出たからでしょうか、手荷物を列車の中に置き忘れてきてしまったのです。ただ1分程度で置き忘れたことに気づき、列車に戻りましたが、もうありませんでした

ガーン!やられました。置き忘れた自分が悪いとはいえ参った。勿論駅員にも聞いてみましたが、忘れ物などの届け出はないとのこと。間違いなく取られました

プラハでの大荷物と違い、今回は手荷物です。入っていたのカメラ三脚東ヨーロッパの「地球の歩き方」くらい。しかしカメラが入っているので、帰ってくることはないでしょう。カメラの紛失も正直痛いですが、やはり困ったのは地球の歩き方です。まだこのユーゴスラビアルーマニアブルガリアと東欧を旅する予定です。既にこの順序でいくように鉄道の切符も買ってあります。

[紛失した東ヨーロッパの「地球の歩き方」]

大荷物の場合と違って、旅を中止せざるを得ないほどの事態はないですが、非常に困ったのは違いありませんし、とてもショックでした。

旅行保険に入っているので、旅行中の盗難は保険が出ますから、カメラは買ってもいい訳です。しかし保険金請求には何らかの証明が必要になります。そのため警察署に行って盗難証明書を出してもらわないといけません。

それからこれはその後必要ないことが分かったのですが、恐らく手持ちの西ヨーロッパの地球の歩き方あたりに書いてあったのでしょうか。その警察署が出す盗難証明書を大使館にいって訳してもらう必要があるとありました。

東欧の地球の歩き方を紛失しているのにどうやって警察署や大使館(因みにユーゴスラビアでは領事館でした)を見つけて行ったのか覚えていませんが、きちんと処理しています。

領事館では日本人の職員、というか領事さんが対応してくれて、とても安心感がありましたが、しっかり20ドルも手数料を取られました。またシャワーがないか聞きましたが、領事館にありませんでした。しかしここで両替などもできたので、食事をすることができて助かりました。

さて地球の歩き方がないと言っても、あと3か国くらいの分です。これくらいガイドブック無しでも凌げないかと考えました。ブルガリアを過ぎればその先はトルコ南欧などの予定コースの地球の歩き方は大荷物の方に入っていたので持っています。

しかし問題はまだここが共産圏であるということです。当時1989年の東欧改革で既に民主化にむけて各国変革していましたが、まだまだ社会主義国だったので、西側の人間が旅をするには不便がありました。

まずは外国人は泊まれるホテルが限られていること。また両替所も規定されていることなどがあり、ガイドブックなしでは両替すらできないということです。これではこの先飯も食えないし、宿泊もできません。

あと3日連続で夜行列車に乗れば3ヶ国を通過して、トルコ、イスタンブールに辿り着きます。また3日くらい何も食わなくても死ぬことはないでしょう。ただ既にベオグラードまで夜行で来ているので、都合4日連続夜行ということになります。

これまでも3日連続夜行はやっているので、4日連続夜行くらい大したことではありません。ただ3日間何も食えないというのが厳しそうだと思っていました。

実はこれまでの旅の間にいろいろな人から言われていたことがありました。それは「危険だからルーマニアには行くな」ということでした。東欧改革で唯一流血革命がおきたルーマニアは、チャウチェスク政権が崩壊して治安が著しく悪くなっていてギャングが跋扈しているとの噂。さらにコレラが蔓延しているというのです。

まあ普通なら行かないですよね。しかしそうと聞くと尚更行きたいと思うのも人情です。ブダペストで既にルーマニア経由の鉄道チケットを購入したのは、そんなルーマニアを見てみたかったからです。

しかしこのような事情もあるので元々ルーマニアは宿泊もせず食事もせず、ほぼ通過するつもりでした。コレラ蔓延では食事をするのは危ないと思ったからです。ユーゴスラビアで食料をあらかじめ買い込んで、それを食べていればいいと考えていました。ユーゴでしっかり休んで、ルーマニア通過の準備をする予定だったのです。

そのユーゴでこんなことになってしまい目論見が狂ってしまいました。食事については日持ちのするものを沢山買い込んでおけば凌げますが、やはりトルコまで宿泊できないのは辛そうだなと思いました。

領事館を後にしたあと、もう一度駅に戻りました。もしかしたらどこかに地球の歩き方が捨ててあるのではないかと期待したのです。カメラは金目のものなので盗んでも、ユーゴで日本語の地球の歩き方など何の役にも立たないので、盗難者が捨ててしまうのではないかという期待をした訳です。

そのため駅中のゴミ箱をあさりました。何でユーゴスラビアにまで来て、ゴミ箱をあさらねばならないのか。情けない気持ちもありましたが、とにかく正常な旅に戻したいという思いです。しかし見つかりませんでした。「返してくれよ、そんなの使わんだろう」と、つくづく思いましたがどこにも捨ててなかったのです。

そんな時、この旅でベルリンとプラハで会ったある日本人の男に駅で会いました。ベルリンではマイルドセブンを一本恵んでやった男です。勿論荷物を取られたことは話しました。彼の話を聞くと、これからサラエボへ行くつもりだと言います。

その後どこに行くのかと聞くと、そのままギリシャに抜けて、そこから中東方面へ行くとのこと。ということは「ブルガリアは行かない?」と尋ねると、「たぶん」とのこと。では持っている東欧の地球の歩き方でブルガリア部分だけくれないかと頼んだです。すこし渋ったかもしれませんが、承諾してくれました。

とりあえずブルガリア分だけでもあれば、ブルガリアでは普通に旅行できます。宿泊することも食事をすることもできるのです。これならユーゴまでを含めて3日連続夜行で済みます。ルーマニア分は元々通過予定だったので必要ありません。

そういう訳で、ユーゴはこのまま宿泊せず夜行でルーマニアに抜ける。ルーマニアではユーゴで用意した食料を食べて過ごしやはり宿泊せず、また夜行でブルガリアに抜ける。ブルガリアでは普通に宿泊して過ごして、一泊でまた夜行でトルコ、イスタンブールに抜ける、という予定がたったのです。


何で列車が?(ルーマニア(ティミショアラ))

さてとりあえずイスタンブールまでの道筋がたったので、一安心ということでベオグラードをルーマニアの首都ブカレストに向けて出発しました。18時くらいだったと思います。

列車は2等ですがコンパートメントです。一つのコンパートメントは8人座席満席で私以外は全員現地の人間。日本人が珍しいのか私にいろいろ話かけてきますが、勿論セルビア語なので分かりません。彼らはドイツ語ロシア語も喋れますが、英語は分からないようでした。

いずれにしても何か怪しげな雰囲気を感じ荷物が気になるので、夜行ですが眠れないと覚悟しました。

ベオグラード出発から1時間くらいでルーマニアとの国境に着きました。ここで全員列車から降ろされます。また皆パスポートを押収されました。

何かとても不安でしたが、カナダ人とか中東方面の人達などの外国人も多かったので、その点何となく安心感がありました。カナダ人とは少し話をしました。しかしこの中東人と思われる人達はやたら係官と揉めています。ビザでもないのでしょうか。

因みにルーマニアは国境でビザが取れるということだったので事前取得はしていませんでした。通常、ビザは旅に出発する前に自国で取るものですが、有効期限があまり長くない国(2週間から1ヶ月程度)もあるので、このような長いバックパック旅行の場合、事前取得はできません。その場合、旅の途中で入国直前に隣の国にある目的国の大使館、領事館で取ります。ただ申請から1週間とか時間がかかる場合もあるので、ビザ取得の計画はバックパック旅行における結構悩ましい問題です。

しかしルーマニアのように国境で取れる場合もあり、とても助かります。勿論ビザは国同士の取り決めなので、日本人にとってということです。他の国の人はまた違います。国によってはビザなしでルーマニアに入れるところもあるでしょう。この点は事前情報通り、問題なく国境で取得することができました。

[国境で取ったルーマニアのビザ]

ビザ取得も済んでパスポートも返してもらって、私は自分の列車のコンパートメント席に戻りました。とりあえず私一人なので、彼らが帰ってくるまで寝袋を出して寝転んでいました。

しかしいつまでたっても他の人たちは帰ってきません。そのうち彼らが帰ってこないのに列車が走り出したのです。恐らく彼らは出国できなかったのでしょう。理由は分かりませんが、密出国でもしようとしていたのでしょうか。

怪しいやつらもいなくなり、コンパートメント独り占めでゆっくり足を延ばして寝れて非常にラッキーと思いました。このまま後はブカレストに着くまで心置きなく寝ていけます。

国境を過ぎて1時間ほど走ったでしょうか。やっとうとうとし始めた時です。どこかの駅に止まったら、私のコンパートメントに沢山の人が乗ってくるではありませんか。「何だこいつら!」と思ったのですが、彼らが盛んに私に向かって「ベオグラード、ベオグラード」と言うのです。

「そうだよ。ベオグラードから来たんだよ」と言いたかったですが、何か様子がおかしい。どうもこの列車はこれからベオグラードに行くということらしいのです。そんなバカな、俺はベオグラードから来たんだと訴えましたが、彼らも依然「ベオグラード、ベオグラード」と言っています。言葉は分かりませんが、この列車がこれからベオグラードに向かおうとしているということは、彼らの様子からはっきり伝わってきました。

訳わからないですが、とりあえず私は降りました。事情を調べるにも言葉も分からないし、さっきのカナダ人がいないか探しましたが、いません。中東の人たちもいません。

時間は夜中のもうすぐ日が変わるという頃だったかと思います。結局なぜ列車がベオグラードに引き返すことになったのかは、さっぱり分かりませんでしたが、次のブカレスト行きの列車は朝7時らしい。後約7時間、この駅で待つほかありません。

因みにこの駅はティミショアラいう街の中央駅でした。これは後で知ることですが、ここで起きた暴動がルーマニア革命の発端になったルーマニア第4の都市で比較的大きな街だったのです。そのため駅としてはそれなりに大きかったのですが、とても汚い駅で仮眠がとれそうな場所やゆっくりできる待合室など皆無です。座るベンチすらありません。それどころか夜中だというのに怪しい人たちが沢山います。たぶんルーマニアを脱出しようとしていた連中だったのだと思います。これでは荷物から片時も目を離すことはできません。仮眠するなどあり得ません。

それにここは現在ギャングが跋扈し、コレラが蔓延するルーマニアなのです。この不安と恐怖は想像がつくでしょうか。また9月ですが何かとても寒かった記憶もあります。不安だったからそういう記憶なのかもしれませんが。

またやはり先ほどのカナダ人も中東人も見当たりません。国境で揉めていた中東人は他の現地人と同じように国境を越えられなかったのかもしれませんが、カナダ人はどうしていないのか。この当時は思いつきませんでしたが、恐らくあの列車、車両を乗り換えればそのままブカレストに行けたのかもしれません。指定席だったと思うので私が車両を乗り間違えたということはないでしょうが、何らかの理由でブカレスト行きの列車か車両が変わったのでしょう。カナダ人はうまく乗り換えたのかもしれません。

一睡もできない。似たような待遇の人もいない。この孤独と不安と恐怖の中、ひたすら7時間、次の列車を待ちました。

夜中に変なところで足止めくらって、朝まで待たされるというトラブルはこの旅二度目です。17日前のことで、まだアメリカ大陸を移動していた時ですがデトロイトでも遭遇しています(アメリカ合衆国旅行ハプニング集)。

それでも何とか7時にブカレスト行きの列車に乗ることができました。


そして誰もいなくなった(ルーマニア(ブカレスト))

9月13日、7時ティミショアラ発ブカレスト行きの列車は何だかとても普通の列車でした。確かコンパートメントではない普通の座席だったと思います。乗っている人もティミショアラの駅にいたような怪しげな雰囲気の人達ではありません。普通のサラリーマンっぽい人や大人しい年配の女性など。私を珍しがって話かけてくることもありません。

そのため安心したのか、ブカレストまでずっとウトウトしていました。勿論熟睡はできなかったので、窓の外の景色がぼんやりと記憶にあります。延々とトウモロコシ畑が続いていたように思えました。

結局ブカレストに着いたのは午後3時。ここからブルガリア、ソフィアに立つ列車は夜9時半なので、適当に街中をうろつきました。カメラもガイドブックもないので、本当に適当に徘徊していただけです。

ただギャングが跋扈しているとか、コレラの蔓延は全く感じられませんでした。しかしどこの店もショーウィンドウに商品がないのが気になりました。屋台で果物などを売っている人たちが多かったように思います。

さて午後9時、ソフィア行きの列車に乗り込みます。やはり8人座席のコンパートメントです。そしてやはり私以外は全員現地のルーマニア人。ベオグラードの時以上に私に興味を持ち、ひたすら話しかけてきます。ルーマニア人は東ヨーロッパで唯一ラテン系の民族です。そのため同じラテン系のフランス語も話せるようです。ドイツ語、ロシア語、フランス語、ルーマニア語が皆話せるのです。以前旅で会ったフィンランド人が6か国語を話せたので、ヨーロッパのマイナーな国はこれくらいは当たり前のようです。しかしやはり英語は話せないようでした。

英語と日本語しか分からないと言っているのに、しつこく話かけてきます。無視してても、突いてまで私の注意を惹きます。アホかこいつらと思いましたが、大体言っているのはドルを持ってないかということ。勿論持っているなんて言いません。また何かくれないかとも言っているようです。一応彼らも日本人は金持ちだということは分かっているようでした。

これは今回も一睡もできないと覚悟しました。まあここを過ぎればソフィアでは一泊できるので何とか凌ぐ他ありません。

暫くするとブルガリアの国境に着きました。やはり同様に全員列車から降ろされ、パスポートを没収されます。少しうろちょろしていたら、綺麗な女の係官に呼び止められました。するとパスポートを返してくれたのです。もう私の手続きは完了したようでした。早いな。因みにブルガリアはアメリカにいる時点でビザ取得をしていました。ルーマニアのように国境で取れないのは勿論、申請してから発行までに一週間かかる場合もあるとの情報だったので旅先の大使館でとる訳にはいかなかったのと、有効期限が十分あったからです。

[出発前に取得していたブリガリアのVIZA]

私は先に列車に戻りましたが、やはり現地人は皆いつまでも帰ってきません。そしてまたそのまま列車は出発してしまったのです。またしても現地人は国境越えができなかったようです。彼らも不法出国をしようとしていたのでしょうか。

そして誰もいなくなったという訳ですが、今回はこのままコンパートメント独り占めでぐっすり寝て、ソフィアまで行くことができました。

何とか無事に懸念していたルーマニア通過に成功しました。


ひどいホテル!(ブルガリア(ソフィア))

9月14日、朝ソフィアに到着しました。何かハプニング集なのに、東ヨーロッパの旅日記になってきました。それだけ東欧はハプニングだらけだったということです。

ブルガリアは当時最も改革が遅れていたので、私が訪問した東ヨーロッパの国の中でも一番社会主義的でした。ソフィアの駅には外国人専用の案内所があり、そこでしか両替ができません。かなり高いレートだったと思います。

またホテルもここが紹介した場所でしか泊まれません。紹介してくれたところは一泊30ドルもしました。当時の東欧の物価を考えると高過ぎです。貧乏旅行をしていた私としてはこの旅の最高額です。

そんな高いホテルがどんなものかと思えば、狭い部屋ぼろぼろのベッド。しかもフレームが壊れているので腰のあたりが深く沈んで、とてもじゃないが寝れません。仕方ないのでベッドのフレームからマットを外して、フレームを部屋の隅に立て掛けて、マットだけを床に敷いて寝ました。この方がよっぽどましだったのです。因みに部屋が狭いので、ベッドフレームは立て掛けないとマットを床に敷くスペースが確保できなかったのです。

まあでも3日ぶりの待望のシャワーです。やっと旅の汚れを落とせます。ところが荷物からシャンプーを取り出そうとしたらないではありませんか。やられた!盗まれたのです。列車の中しか考えられませんが、いつの間に。ブダペスト以来なので、この3夜行のうちのどこかです。

石鹸はあったので、仕方なく髪の毛も石鹸で洗いました。ごわごわしますが。

さて翌日また夜行で立つ訳ですが、まる一日あります。地球の歩き方があるので、ブルガリアの著名な観光地であり、世界遺産にもなっていたリラの僧院に行きたかったのですが、結構時間がかかりそうでした。それにカメラもない訳です。結局やめてしまいました。

適当にソフィアの街をうろついてました。一応歩き方を見ながら観光地を回ってます。聖ペトカ地下教会セント・ジョージ教会を観光していると思います。以下の写真は拝借したものです。

[聖ペトカ地下教会]

また火事で焼け落ちた建物があったのを覚えています。後で分かったことですが、東欧改革の時にブルガリアでもかなり激しい暴動があったようで、共産党本部が焼き討ちにあったのです。私が見たのはその建物でした。

そして20時40分、やっと東ヨーロッパを脱出すべくイスタンブールへ向けてソフィアを出発したのです。


旅の立て直し(トルコ(イスタンブール))

9月15日夜、ソフィアを立った列車はひらすら東進してイスタンブールに向かっていました。翌朝16日、目が覚めると車窓から延々と続く荒野が見えます。この旅で一番旅情を感じた眺めでした。思わずセンチメンタルになりました。アメリカ、セントルイスでの家内との後ろ髪をひかれる別れ(アメリカ合衆国旅行ハプニング集)もあり、またここまでまだ1ヶ月なのに実にいろいろな事がありました。

それらのことに思いをはせつつ車窓を眺めながら旅愁にひたっていると、やはりバックパックの旅をしているカップルの女性(欧米人)の方が私に声をかけてきました。「何か悲しいことでもあるの?」

恐らくあまり楽しそうな顔をしてなかったからでしょう。恋人と離れて長い旅をしていること、またセントルイスでのことなど話しました。とにかくその恋人が無事学校に帰っているのか心配だと言いました。そしてイスタンブールについたらアメリカに電話をかけたいが、かけ方が分からないとも話しました。

するとしばらくしてから、その彼女が自分のガイドブックで調べて教えてくれたのです。PTTというところに行けばいいようでした。この旅で初めて人の温かさに触れた気がしました。

結局この日、列車は5時間も遅れて午後2時48分にイスタンブールに着きました。両替をして早速教わったPPTに行きました。アメリカへの電話のかけ方を聞いて、アメリカの家内がホームステイをしているホストハウスに電話をしました。

しかし家内は留守だったのです。このホストハウスにはもう一人日本人の男の子がホームステイをしていました。彼に代わってもらって話をしました。とりあえず折り返しはできないため明日また同じ時間にかけるので、家内にいてくれるよう言付をして切りました。いずれにしても家内が無事ガズデンに帰っていることが分かったので一安心です。

この後予定していたモラという有名な日本人の溜り場である宿にチェックインしまいた。しばらく同部屋の他の外国人や日本人とも話して過ごし、結局この日はその後も彼らと食事をしたりして、どこにも出かけませんでした。

翌17日はとにかくカメラ探しです。日本製のカメラは沢山ありましたが、なかなか安くていいものが見つかりません。そのうち紛失したものと同じ型のものも見つけました。値切ったら結構安くなったので買おうとしたのですが、カードが使えません。帰国後保険で返ってくるとは言え、現在手持ちのお金(トラベラーズチェック)には限りがあったので、カード決済にしたかったのです。

しかしカードが使える店がありません。そこで初めてカードキャッシングに挑戦しました。これもなかなか可能な銀行がなく苦労したのですが、何とかキャッシングができてカメラを購入することができました。ついでに同時に失った三脚手荷物用バッグも買いました。

この後、3時にまた家内のホームステイ先に電話をしました。やっと家内と話しができたのです。

これで懸念も払拭され、旅に必要なものも揃って、やっと正常に旅が続からられる体制が整ったのです。久しぶりに観光もして、写真も撮りました。


受け取れなかった手紙(ギリシャ(アテネ))

イスタンブールで旅の立て直しを行って、それなりに観光もできました。

9月20日イスタンブールを立って、翌21日朝ギリシャアテネに着きました。またヨーロッパに戻ってきました。しかし同じヨーロッパでも共産圏の東ヨーロッパではありません。一応西側のギリシャです。

アテネに着いたら是非やりたいことがありました。それは家内からの手紙を受け取ることです。この旅に出る前に家内と約束していたことがあります。旅の間私からハガキや手紙を出すことは当然できますが、私が受け取ることは通常難しいです。しかし立寄ることが日程も含めはっきりしていて住所も分かっている場所であれば、家内からそこへ出した手紙を私が受け取ることができます。そうすれば定期的に私も家内の近況を確認することができるのです。そのためいくつか事前に決めておいた場所がありました。

実はその最初の場所がアテネのJALオフィスだったのです。たぶん地球の歩き方などにJALオフィスなら世界のいろいろなところにあり、手紙もあずかってくれると書いてあったのだと思います。

そのため宿がきまったらすぐにJALオフィスに向かいました。ところが手紙など受け取っていないと言うのです。一旦諦めましたが、予定していた期日を考えると届いてないはずはないので、もう一度戻ってよく探してほしいと頼みましたが、非常に冷たい対応でした。対応したのは現地ギリシャ人でした。

この時客の日本人が助けてくれて、日本人スタッフを呼ぶように言ってくれました。その後日本人スタッフに確認すると確かに手紙は届いていない。もしかしたら郵便局で止まっているのかもしれないとのこと。ギリシャでは日常茶飯事らしいです。すぐに郵便局に行って確認しましたが、ありませんでした。

もう一度JALに戻って一応届いたらとっておいてほしいと頼んで帰りました。

今日の手紙受け取りは諦めて、まずは両替です。今銀行がストライキをしているということで、ホテルで両替をしました。ところが街に出てみると銀行が開いているようで、レートもホテルで両替した時よりもずっと良かったのです。そこでホテルに戻り、払い戻して、銀行に向かうと今度は開いてませんでした。もしかしたら私の勘違いだったのかもしれません。

仕方なく先ほどの郵便局に行くと同じくらいのレートが書いてあります。しかし銀行がストライキのせいで非常に混んでいました。かなり並んでやっと私のところまできました。ところがパスポートがいると言うのです。仕方ないのでホテルに戻って取ってくるが、次は並ばずにすぐ対応してくれるかと言ったら、対応するというのでホテルに戻ってパスポートを取ってきました。

しかし戻ってみると先ほどの窓口はもうクローズしているのです。別の窓口は長蛇の列です。またこの列に並ぶの?係員に抗議したのですが、あまり伝わりません。そうしたら並んでいた日本人の一人が事情を察し、同情して自分の前に私を入れてくれたのです。

ストライキのせいで両替一つでとても苦労してしまいました。また楽しみにしていた家内からの手紙も受け取れず、踏んだり蹴ったりの日でした。

その後、ギリシャではアテネ観光エーゲ海クルーズなど結構しっかり観光ができて、久しぶりに充実した日々でしたが、アテネを立つ最終日の9月24日にもJALに行きましたが、手紙は届いていませんでした。結局アテネでは受けとることができなかったのです。


またしても手紙が(イタリア(ローマ))

9月24日にギリシャを立ち、船でアドリア海を渡り翌日の夕方イタリアブリンディッシに上陸。そこからまた夜行列車で9月26日朝ローマに到着しました。ここまでギリシャからイタリア行きの船の中で知り合った日本人旅行者篠○さんと一緒でした。

実はローマでも前述の家内からの手紙JALオフィスで受け取る予定にしていたのです。宿を決めたら早速篠○さんも付き合ってくれてJALに向かいました。ところがやはり手紙はまだ着いてませんでした。聞くとイタリアもこのあたり非常に遅く、いつまでも郵便局に留まっているらしいです。

出発前に家内に伝えてきた旅程については、殆ど数日のずれしかなく、大体その1週間前くらいに出すよう指示していました。これは今後の手紙はもっと早めに出すよう家内に連絡しないとこれからもずっと受け取れないかもしれないと危機感を覚えました。少なくとも私の到着予定の2週間前には出す必要がありそうです。

その後今度は篠○さんにつきあって、日本大使館にいったあと、篠○さんが両替をしている間に日本の自宅に電話をして、家内にこれから手紙は2週間前に出すよう伝えてほしいと頼みました。何でこんなまわりくどいうことをしているかというと、また家内のホームステイ先にかけてもすぐ捕まる保証はないし、もうお金がないので国際電話も極力かけたくありませんでした。日本の自宅であればコレクトコールでかけられるので、こっちにかけて頼んだのです。

しかし翌日27日夕方もう一度JALに行ったら、届いていました。私が旅先で受け取った初めての手紙です。


ゲイたちが大騒ぎ(イタリア(ローマ))

ローマで泊ったのは、ユースホステルではありませんが、ドミトリー形式の安宿。それでもローマ中央駅からすぐのとてもロケーションのいいところでした。

同室になったのはアメリカ人のビル。彼はとてもいいやつで、ワインをくれたり、タバコをくれたりしました。またイタリアのパンは固いけど味は最高だと言って、パンも分けてくれました。更に私がくしゃみをしていたせいでしょうか、風邪でもひいているのではと薬もいろいろ薦めてくれるのです。思わず日記に「ビルはとてもいいやつだ」と書きました。

ところがこいつがとんでもなかったのです。やつはゲイでした。そのために男の私に優しかったのです。その後どこかで見つけてきた他のホモやゲイと酔っぱらって大騒ぎを始めました。夜中だというのに、そのゲイたちと騒ぎながら部屋を出たり入ったり。そんなことを3時くらいまでは続けていたでしょうか。

私が全く眠れなかったのは言うまでもありません。そのためこの男は、翌朝ホテルから追い出されました

おかげでその後はこのホテルで平穏に過ごすことができました。


花の都でゴミあさり(イタリア(フィレンツェ))

ヨーロッパのユースホステルは日本と違ってキッチンなどが完備したところは非常に少なかったです。その他のドミトリー形式の宿などでもあまりキッチンはありませんでした。それでも時折キッチンのあるところがあったので、この旅で私はインスタントラーメンをいくつか持参していました。アメリカにいるときに日本から送ってもらっていたサッポロ一番醤油ラーメンです。アメリカでも普通にスーパーでアメリカ製のインスタントラーメンは売ってますが、やはり日本のインスタントラーメンには敵いません。特にサッポロ一番は昔から私の大好きなラーメンの一つです。

[サッポロ一番 しょうゆ味]

そのためキッチンのある宿は確りチェックしていました。地球の歩き方にはこうした設備の情報もしっかり載ってます。実はこの旅で最初のキッチン付き宿はイタリア、フィレンツェユースホステルを予定していました。従って私がフィレンツェに来るのに一番楽しみにしていたのは、絵画でも建造物でもありません。あそこに行けばラーメンが食べられるということでした。

予定通り、フィレンツェではユースにチェックインすることができました。ところがところがです。確かにキッチンはあったのですが、鍋など食器が全く置いてないのです。これは想定外でした。私は食器は持参してなかったので、これではラーメンは作れません。絶対ここでラーメンが食べられると楽しみにしていたのでこれは非常にショックでした。

そこで私がとった行動がすごいのです。街を歩き回って、ごみ箱などをあさり鍋が捨てられていないか探したのです。

花の都フィレンツェに来て、観光もせずに私が最初にやったことが街のごみ箱あさりだった訳です。誠に情けないという他ありません。しかし鍋など普通そう簡単に捨ててある訳がありません。特定の粗大ごみの収集場あたりにもでいけば見つかったかもしれませんが、そのへんのごみ捨て場にはないでしょう。結局見つかりませんでした。

がっかりして帰ってきたのですが、キッチンに行くと他の旅人持参の食器で調理をしているではありませんか。そうだと思いつき、彼らに終わったら貸してくれないか頼んだのです。当然減るもんでもないので、断る人などいませんでした。考えてみれば、最初からこの方法が一番だったのです。ショックのあまりいい考えが浮かばなかったのでしょうね。

念願のサッポロ一番醤油ラーメンを美味しく頂くことができました。


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