高校時代におけるバイクとの関わり

2013/3/30


■バイクに対する当初のイメージ

私は当初、自分がバイクに乗るなど全く思っていませでした。なぜこのようなことを殊更思ったかというと、バイク=暴走族=不良と思っていたからです。こう書くと私は暴走族不良とは全く無縁のまじめな人間のように思うかもしれませんが、実はそうではなかったので、余計そう思ったのです。

私は特に家庭環境が悪かった訳ではありません。両親も健在であり、普通に私を育ててくれました。ぐれる環境ではありませんでした。しかしかっこつけたい目立ちたいという願望は人一倍強かったように思います。そのため中学生の時は少々突っ張っていました。そのせいで当時中学校で所謂番を張っていた○井に目を付けられ、不良グループに入るよう誘われたのです。その時の○井のセリフをよく覚えています。「俺はここで草鞋を脱いでるんだ」。普通使いませんよね、こんな言葉。中学校1年の時ですよ。しかし私はこの誘いに乗って○井たちのグループに入りました。

しかし最初はそれなりに楽しかったのですが、やがて他校との抗争の中で辛くなり、一部のメンバーと共に脱退を画策しました。3年になる頃、うまく脱退できたように思えたのですが、ちょっとした行き違いがあってできませんでした。この時ひどいリンチを受けました。大けがをさせられた訳ではありませんが、顔の晴れは1週間ひきませんでした。しかしその後何となく自然消滅的にグループとの付き合いはなくなってはいきました。

そんなこともあって、不良に対する嫌悪感が人一倍強かったと思います。

高校は決してレベルの高いところでありませんでしたが、一応進学校ということで不良はいませんでした。中学時代の不良グループとの関係もこれで完全になくなり、平穏な高校生活がはじまりました。もっとも元悪ということで、高校でも普通の生徒では決してなく、ちょい悪で通っていました。しかしそれでも暴走族とは縁のない生活でしたから、依然バイク=暴走族=不良と思っており、不良に対して特別嫌悪感が強かった私としてはバイクに乗るなどあり得ないと思っていたのです。


■バイクに対するイメージの変化

そんな折、1年の2月頃です。クラスメートの瀬○が中型の免許を取りに行っているという話をしてきました。瀬○も私と同じちょい悪で、彼と私はいつも担任から目を付けられていました。それでも勿論瀬○も暴走族でも不良でもありませんでした。ちょい悪とは言え、不良でない者がバイクに乗ることがあるのかとある意味ちょっと衝撃でした。

それだけでなく、他のクラスの者で全くちょい悪でもないものが、ぞくぞくと中型免許をとってバイクに乗るのです。ここに至って、バイク=暴走族=不良という認識はすっかり無くなりました。バイクは一つの趣味としてしっかり確立したものであることを認識したのです。

ただしこの時点でも自分がバイクに乗ろうとはまだ思っていなかったのです。


■バイクへの目覚め

やがて中免を取って、HONDA CB400TホークUを買った瀬○のタンデムに乗せてもらう機会がありました。その時の気持ちよさというか、これまで経験のない世界に衝撃を受けたのです。特に甲州街道の環七のアンダーパスを通った時のことです。瀬○はいつもここを飛ばす場所をきめているようで、約100キロの速度を出しました。そして空気抵抗を減らすため上体を伏せたのです。当然後ろの私にものすごい風があたり、つられて上体を伏せました。

[HONDA  CB400T ホークII]


ものすごい風圧と体が浮くような感覚。その時の驚きは今でも忘れることができません。私はすっかりバイクの虜になってしまったのです。思えば私は小さい時から新幹線が大好きでした。それはあのスピードが好きだったのです。つまり私は元来スピード狂だったのですが、これまで実感が無かったのです。それがバイクに乗ってその隠れていたものが目覚めたとでもいうのでしょうか。潜在的に求めていたスピード。それを簡単に実現してくれるものがバイクだったのです。しかしこのスピードに対する願望を満たすものとしてバイクを捉えたことが今後のバイクライフにいろいろな影を落としていくことなります。

尚、最初に私にバイクの素晴らしさを教えてくれたバイクとしてHONDA  CB400T ホークIIはずっと好きなバイクとして私の心に残りました。今見ると何かずんぐりとした決してかっこいいバイクではないのですが、当時はとてもかっこいいと思ってました。事実爆発的に売れたのです。友人の所有車でも一番多かったと思います。因みにホークUのほか、後述するGX400SP、GS400Eが多かったです。
 

バイクに対する嫌悪感も払拭され、そのスピードの虜になったものの、他にちょっと懸念していたことがありました。実はこれよりずっと以前にスクータに乗ったことがあります。パッソルだったように記憶していますが、母の実家の広い庭でのことです。おじのスクータでしたが、敷地内なので乗せてくれたのです。しかしアクセル操作がうまくできず、上手に乗れませんでした。止まりたい時にアクセルを戻せばいいものを戻さないでブレーキをかけようとして、庭の石に乗り上げそうになりました。その時のことがあるので、ちょっと心配だったため原付でいいので練習したくなりました。

当時クラスメートの国○HONDA CB50JXを持っていたので借りて、新宿のビル街の道路で練習をしました。勿論無免許ですが。国○はその後中免をとって、私と因縁深いGX400SPを買いました。

[HONDA  CB50JX]


この練習でギヤ付きバイクも大体うまく乗れるようになりました。いよいよ本格的にバイク始動です。


■母親との戦い

しかしバイクに乗るには、もっと大きな壁がありました。親の承諾を得ることです。ところがこれが予想以上に困難を極めたのです。数年前バイクの事故で左足を失っている知り合いがいました。その家族の苦悩をよく知っていた母親は大反対をした訳です。因みに父は基本的に母に賛成ということで、特に自分として反対とか賛成とかはいいませんでした。

毎日のように説得し続けました。母親には当然バイク=暴走族=不良といった考えもありました。前述の知り合いも暴走族であり、その結果このような結末になっているのです。私はバイク=暴走族=不良でないことはこんこんと説明しましたが、それは納得するにしても、危険なことには変わりありません。どうしても首を縦に振りません。

こんなことをどれくらい続けたでしょうか。そのうち一つの折衷案を私が出します。バイクは乗らないが免許は取らしてくれと頼んだです。今思えば怪しい取引で実質折衷案でも何でもないですが、とりあえず長いやりとりに母親も疲れたのでしょうか、それとも本当に私を信じてたのでしょか。これはしぶしぶ承諾してくれたのです。


■憧れのバイクと欲しかったバイク

免許を取っても乗らないなんて、勿論本気で考えていた訳ではありません。私がこの頃、一番欲しかった憧れのバイクはHONDA CB750Fでした。それもです。銀もありましたが、全然興味ありませんでした。しかしこれは限定解除をしないと乗れない訳で、当時高校生では不可能と言われていたため単なる憧れで終わってます。

[HONDA CB750F]

そこで中型で乗れるCB750Fに最も似ていたのがHONDA CB250Nでした。勿論です。当時は中型免許の上限である400ccの人気が圧倒的でした。250は400のお下がりが多く、重さは同じで馬力だけがないということで250のステータスは非常に低かったです。車検がないというメリットがありますが、車体価格は殆ど変わらないので、私の周りも殆どが400に乗っていました。CB250Nも同じ形のCB400NホークVのお下がりだったので本当は400の方が良かったのですが、残念ながらCB400NホークVには青がありませんでした。色は絶対譲れません。

[HONDA CB250N]

友人は皆400でしたが、たとえ250でもこれなら納得できますし、友人でだれもCB400NホークVにも乗っている者がいなかったので、めずらしくて目立つかなとも思っていました。でも400がほしいという気持ちもありました。私が400で欲しかったのは勿論前述のCB400TホークUです。既にKawasaki Z400FXが発売されて、爆発的ヒットになっていたようですが、私の周辺には殆ど乗っている者がなく、私自身もあまり魅力に思っていませんでした。


■中型免許取得へ

さて免許取得にはまず教習所探しです。通学途上にもいくつかありましたが、費用の安いところを求めて、調布にある調布自動車学校を選びました。私の高校は京王線の下高井戸にあったので、京王線沿線が便利でした。調布自動車学校は京王線柴崎駅から歩ける距離にあります。もっともロケーションも大事ですが、何といっても費用が安かったのが主たる選択の理由でした。

当時中型二輪免許は、規定時間は8時間でした。ただ多くの人がオーバーしていたようです。瀬○も12時間かかったと言っていました。しかしこれは教習所によっても差があるでしょう。教習車はYAMAHA GX400SUZUKI GT380です。GX400は丸っこいタンクになった2型(78年式)ですが、スポークホイールのでSPでないやつでした。GT380の方は殆どこのバイクに興味が無かったので、型番などは全く覚えていません。そもそも当時も意識してなかったです。

[YAMAHA  GX400]


[SUZUKI  GT380]


教習は結構大変だった記憶があります。雨の日の教習でバイクを倒し、泣きながらエンジンをかけたこともあります。GT380はセルモーターがなくキックスタータのみでした。倒すとなかなかエンジンがかかりません。雨の日は尚更です。従ってGT380が教習車になるといやでした。ただし特にこの課題が不得意だったといった記憶はありません。

当時この教習所では人の教習原簿を勝手に見ることができました。そこには中学時代の同級生がいました。ほとんど付き合いはありませんでしたし、教習所で会ったことがなかったので、話をすることはなかったのですが、ものすごく時間オーバーをしてました。どうもこの教習所はかなり厳しいのだなと思った訳です。

あまり細かいことは覚えていませんが、結局14時間教習をしました。6時間オーバーですね。原付の経験もないものが、この教習所としては平均的だったと思います。卒業検定は一発で合格しました。8月の頭だったと思います。しかしその日のことです。


■無免許で御用

嬉しくて、検定合格の帰りに学校に寄りました。夏休みでしたが、クラブ活動でとなりのクラスの高○がバイクで来てました。まだ免許はない訳ですが、どうしても乗りたくて借りたのです。SUZUKI GS400Eでした。実は400ccバイクの無免許運転はこれが初めてではありませんでした。そのため罪悪感は全くなく、卒検に受かっているのだからいいだろうくらいにしか思っていませんでした。

[SUZUKI  GS400E]


学校から自宅近くまでいって、帰ろうとしたところです。梅ヶ丘通りの宮前橋交差点の付近で横道から梅ヶ丘通りに出ようとしたところ、ちょっとシフトダウンに手こずっていました。そこにチャリに乗った警察官が通りすがったのです。その私の様子が変だと思ったのでしょうか、近寄ってきました。止まれというのです。やられました。不覚にもここで無免許で捕まってしまったのです。

相手はチャリなので、逃げることもできたかもしれませんが、ナンバーは見られます。いずれ捕まるのは目に見えています。おとなしく御用となりました。そのまま宮前橋の交番までバイクを押して連れて行かれました。

この後交番に持ち主である高○も呼ばれました。高○も無免許運転幇助となってしまいました。友人は免許停止になったので、免停講習を受けに行きました。これを変わってあげることはできませんが、勿論その費用は負担しました。

私の方は教習所卒業がどうなるのか分からなかったので試験場での免許交付はいかないでいました。しかし免許取得には支障がないようなので、9月になってから試験場で学科試験をうけ免許は取得できました。またこの免許に特に前歴などはついてなかったようです。

少年だったため、父と一緒に板橋区のどこかへ行ったのは覚えていますが、罰金などはありませんでした。


■バイク購入と返却

上記のようなことがあっても、結局私の免許には何の傷もなく、罰金もないので時間がたつと何とも思わなくなりました。免許だけという母との約束もほごにすることになります。ちょうど中学時代からの友人で同じ高校へ行っていた越○がバイクを売りたいということでGX400SPを売ってくれたのです。教習車とはちょっと違いキャストホイールのSPで年式も79年式(GX400としては最終型)だったと思います。

[YAMAHA  GX400SP]


いくらで買ったかは覚えていませんが、学校の近くの公園で受け取りました。しかし受け取った直後に、なんとも情けない話ですが、どぶにはまったのです。10cm程度のどぶだったのでバイク自体は殆どダメージは無かったのですが、私の精神的ショックが大きかったです。その日自宅に乗って帰り、母に見せました。驚いたのは言うまでもありません。ただ少々諦めぎみのようで、想像していたよりはひどい剣幕ではありませんでした。

その態度が逆に私の不安を大きくしたのかもしれません。受け取った直後の事故などから自分は今後無事にバイクに乗っていけるのか不安になってしまったのです。

結局このバイクはすぐに友人に返してしまいました


■事故

もはや購入は諦めていた感じですが、時折友人から借りては乗っていました。

ある高校の友人達とのマスツーリングの時です。はっきりと日にちは覚えていませんが、何となく10月10日体育の日だったような記憶があります。バイクを持ってない私は当然友人のタンデムで出発しました。バイクの持ち主であるその友人とは前述の国○です。しかし途中で交替をして、国○がタンデムに、私が運転となりました。バイクはやはりYAMAHA GX400SPです。このバイクは何かと因縁があります。

[事故を起したGX400SP]

自分ではあまり感じなかったのですが、私の運転を見て、国○がさかんに「怖い、怖い」と言っていたのを覚えています。傍から見ると危険な運転だったのでしょう。それでもいい気になって、危険運転を続けていました。忘れもしない国道1号線の横浜、東横線 反町駅付近の急なカーブです。速度を出し過ぎていたため曲がりきれず、歩道に乗り上げ、その際に転倒したのです。速度出し過ぎとは言え、それは私の技量とカーブのきつさの相対関係であって、速度自体はそれ程出ていませんでした。そのため転倒しただけで、何かに激突した訳でもないので、幸い二人とも怪我は殆どなかったもののバイクは走行不能になりました。危険運転をさかんに指摘していた国○が非常に怒ったのは言うまでもありません。バイクが走行不能になったので、当然二人はツーリングを離脱しなければなりませんでした。双方、またはどちらかが大けがをするようなことになったらツーリング自体が中止になったかもしれませんが、とりあえず被害はバイクだけなので、他のメンバーは我々を残して、ツーリング継続のため出発して行きました。その後バイク屋に連絡して場所を知らせて後日取りに来てもらうことにしました。たまたま東横線、反町駅が目の前にあったので、当時世田谷在住の私と新宿在住の国○は東横線で帰れた訳ですが、ほぼ無言で東横線に乗って帰ったその時のことは忘れることができません。バイクの修理代は当時でも10万円以上かかりました。

この事件をきっかけに高校時代はバイクに乗ること自体を諦め、免許証を親に預けたのです。


■高校時代のその後と後のバイク人生

その後一度だけ友人とマスツーリングに行きましたが、私はずっとタンデムでした。それからはバイクとは無縁の高校時代を過ごしていました。幸いというか自然というか、一番仲の良かった仲間にはバイク乗りがいなかったのです。そして受験生活に入り、益々バイクのことは忘れていきました。

しかしこの最もバイクに乗りたかった高校時代に乗れなかったことは、最も多感で楽しい時代だった高校時代の最大の汚点として私の心にいつまでも残り続けることになります。ことあるごとに悔しさがこみ上げてきました。母を恨みましたが、結局は自分が蒔いた種です。

またこのことが後の人生で私がずっとバイクに拘り続けてきた大きな要因であったとも今でも思っています。高校の時にバイクに乗れた連中は多くがその後降りています。最も乗りたい時期に乗れたので、十分満足できたのでしょう。しかし私はこの時代に乗れなかったので、その後20代、30代、40代でいくら乗ってもこの時の穴を埋めることができないのです。私がこの呪縛から解かれるときが来るのでしょうか。


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